沖端水天宮由来
140年続く沖端水天宮は、明治2(1869)年に久留米水天宮から勧請(かんじょう)(神仏の分霊を他の地に祭ること) され、同地区内にあった稲荷神社、弥剣神社(祇園社)の3社を合祀したもので、地元では「水天宮さん」と呼ばれています。
本社格である久留米水天宮は、平家没落後、建礼門院(けんれいもんいん) に仕えていた侍女伊勢局(いせのつぼね)が、安徳天皇の御霊を鎮め祭ったものだと伝えられています。 沖端は旧藩時代から長崎・天草との交流の港として栄え、文化経済の交流が盛んだったので、古典的な囃子に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交ざり合ったと言われています。この祭りの形式は約200年前の文化年間(1804 ~1818)に祇園祭として奉納したことに始まるとされています。
このころはお宮の前に町内から小舟3隻を出し、1隻には御輿(みこし)、2隻にお囃子(はやし)を乗せ、お宮から立花屋敷まで行ったり来たりしていたということです。
水天宮として合祀されてからは3隻2列計6隻の船をつないだ舟舞台となり「三神丸」と名付けられました。
また、沖端の青年たちが御輿を担いで町内を回る「御神幸行列」も行われます。
この御輿の下をくぐると無病息災を得られ、水難を逃れると言われています。
当番町全体で運営
祭りは、沖端地区の6町(沖端町、南町東、南町西、札の辻、宗信町、元稲荷町)で、
毎年1町ずつ順番に世話方を行っていました。しかし、世話方の人数が少なくなってきたことから、近年は、2町、3町の合同で運営しています青年部は舟舞台や囃子を運営し、婦人部はおみくじの販売、総代などの「中老子」は、おふだやひょうたんの販売など、当番町全体で運営にあたります。
町内では、本社の久留米水天宮から受けてきたひょうたんの形をした水難事故防止の
お守り約2000個とお札などを各世帯で手分けして準備。
ひょうたんの中にお札を入れて栓をしたり、お札を折って糊付けしたりとすべて手作業です。
その数は、全国の水天宮60数社の中で1、2の売り上げを誇るほどで、沖端水天宮のにぎわいをよく表しています。「舟舞台を出す水天宮はここだけではないでしょうか。
舟舞台を押したり、囃子を演奏したりするのに人数が必要で、この時期沖端出身の青年は、地元に帰ってきます」
水天宮参考文献:「新柳川明証図会」「柳川の文化財第3集」